■ 夜の黒森に…


a0115014_4292155.jpg

 小笠原善平――
 徳冨蘆花の小説「寄生木(やどりぎ)」の原作を書いた人だ。
 善平は、黒森さんのふもと、山口村に生まれ育った。
 村長だった父が、村の金をつかいこんだという疑いをかけられ、未決監につながれていた。
 この父の無罪放免を祈るため、善平は黒森神社で断食籠もりをしようとした。
 そのときのようすは、だいたいこんなふうだった。
 
 父は十六の歳、黒森のお山に籠もって七日の断食をした。
 大祖母(ひいばば)や祖母(ばば)の口から、そんな話を、しばしば聞いている。
 自分もことし、数えで十六。
 七日の断食籠もりをして、獄中の父を救おうと決心した。
 その日、腹いっぱい麦粥を食って、一里の道を黒森さんへ登った。
 お堂にひざまずいた。
 老いた杉のこずえをもれる夕べの光も寂しい。
 神水(みたらし)の音はさえざえとしている。
 深い山の日暮れの心細さ。
 善平の心は麻のように乱れた。
 いろいろなことを思った。
 今は昔、この山の上の赤沼のほとりに、機織(はたおり)の道具で土を掘っていたという山姥(やまんば)のこと。
 現に生きているなにがしの老爺が見たという、モミの木にぶらさがる酒樽のような頭の大蛇のこと。
 昔むかし、この黒森のふもとの小さな寺の折り戸を夜中にたたいた梅の精、鯉の精……
 いよいよ日が暮れてしまう。
 すごい、すごい。
 妙な鳥が鳴きだす。
 森の奥から不気味な音が聞こえる。
 お堂のなかに経をとなえる声がする。
 気のせいかと思って耳をそばだててみても、たしかにそんな声がする。
 とたんに、老樹の間に、すさまじい響きがした。
 ギヤーッ、グッ、グッ
 ギユーイ、ギイギイ
 ギッ、ギッ
 身の毛がよだつ。
 もうたまらぬ。
 将来ある身だ。
 熊や狼の餌食になってたまるものか。
 命あってこそ孝行もできる。
 退却、退却!
 立ち上がるより早く、まっしぐらに一里の道をはせ帰った。
 夜は更けていた。
 なにも知らない母が、ともしびの影に寝ないで待っていた。
 善平は恥ずかしくて、その夜のことを今日まで黙っている。
 臆病の孫にひきかえ、男まさりなのは祖母だ。
 村長の帰りを願って、女人禁制の黒森さんに、お百度を踏んだ。
 百本の藁(わら)にひとつひとつ一厘銭を通して日にちを数え、夜なか、黒森さんに百日かよって祈った。


                 宮古 on web
[PR]
by miyako_monogatari | 2009-02-07 14:39
<< ■ 山口川の水争い ■ 黒森のオロチ >>